「できない自分をいじめない!」プロローグ—3
人はなぜ勉強をするのだろう?
苦労して学ぶ必要があるのだろうか?
親や先生は、子どもたちに向かって、「勉強しなさい」と当然のように言うが、「どうして?」と反問されたら、答えに窮することが多い。結局は、経済的な損得勘定に矮小化してしまいがちだ。
詰め込み教育に始まって、偏差値至上主義の台頭、その批判から生まれたゆとり教育と、その反動的な見直し、学校や教師に対する評価制度の導入など、右往左往する大人たちの教育観が、未だ明確な回答が用意されていないことを証明している。
しかし、僕は今なら、簡単に答えることができる。
「勉強したほうが、断然、楽しいから!」。
学ぶことによって、物事の道理を理解することは、人間にとっての最高の喜びであり、この上ない知的興奮をもたらしてくれる。人が生の充実感を得られるのは、私たちを取り巻く網羅万象の一端に、自らの力で触れたときなのだ。
ところが、勉強しない人は、種の保存しか念頭にない動物と同じになってしまう。ヒトもたしかに動物の一種であり、「それで十分」と言う人がいるかもしれないが、僕はもったいないことだと思う。
もしも、人間に特権が与えられているとしたら、それは、「人間らしさを追求する能力」にある。人は人らしく、自分は自分らしく生きたいと願う本能があるのだ。その原動力となるのが知性であり、一人ひとりが考え、行動するための“勉強”なのだ。
そして、学んだことをスキルとして磨き上げていけば、他者から評価されて、社会に貢献できる。感謝の言葉、尊敬の念、よりよい地位や収入、望みの仕事など、生きる上での活力を自分にしていくことができるのである。
一方、勉強をしないままでいると、やがて社会から、「役立たず」「使えない」の烙印を押される。改善の努力をしない人は、その場で生きる資格を徐々に失っていくからである。これは、非常なことでも何でもない。人間社会も自然の摂理の一部なのだから、生命の喜びに貢献できないものは、滅びる運命ににある。会社ではリストラの対象となり、その結果、自立することも、大切な人を守ることもできなくなってしまう。
どちらがよいか、明白だろう。
今は、他人に向かって、「やりなさい!」と強制したり、安易な答えを期待するよりも、「なぜ、勉強するのか?」という目的意識を自分なりにしっかりと確立し、「いかに学び、実現させるか?」と自らの心に問いかけるべき時なのだ。
もしも、本気で子どもたちに勉強をさせたいと思うなら、わたしたち大人が率先して、新たなことを学び始める以外に方法はない。
それが、40年以上、教育に携わってきた僕の結論である。
<人生一本勝負!>
Q:家族が年末年始ぐらい勉強を休んで、家族旅行に行こう!というのですが…(司法試験受験/男性32歳)
A:「他人は遊ぶ、自分は学ぶ」。人より多く勉強しないと合格しない。家族旅行をするのは合格してからだ。どうしても行きたいなら、受験をやめる。